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伊和神社
伊和神社は、明治42年に現在の地(加治田(かじた)小字(こあざ)白(はく)山下(さんした))に移転されました。伊和神社の起源については正確にわかる記録はありませんが、延享(えんきょう)4年(1747)の「加治田村之図」という絵図には、川浦川の南に「伊社(いやしろ)」という神社が示されており、この「伊社」がもともとあった場所は、今も宮前の地名が残っています。伊和神社の春の祭礼は「田の神祭」と呼ばれており、5年に一度の4月に行われ、岐阜県の無形民俗文化財に指定されています。
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龍福寺
加治田にある龍(りょう)福(ふく)寺は、加治田城主佐藤(さとう)紀伊(きいの)守(かみ)の母が寄進した庵の跡に、堂洞城が落城した2年後の永(えい)禄(ろく)10年(1567)に佐藤家の菩提寺(ぼだいじ)として佐藤紀伊守によって建てられました。富加町には加治田城と堂(どう)洞(ぼら)城(じょう)という2つの城がありました。尾張の織田信長が木曽川を渡り、中濃へ攻め込み、加治田城主である佐藤紀伊守は、苦渋の決断をせまられ、最後は信長に加勢して岸(きし)勘(か)解(げ)由(ゆ)が守る堂洞城へと攻め込みました。堂洞城は落城し、合戦は決着しますが、この戦いは堂洞合戦と呼ばれ、数々の悲劇的エピソードが、江戸時代の軍記物の題材となり、地元での語り草となっています。
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藤平神社
藤平神社の創建年代は明らかではないが旧飛騨街道筋にあった神社として古い歴史を持った神社であります。神社の裏山には数基の古墳があり、その中から出てきた刀が神社に保管されていると伝わります。神社の前の池にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)は鎌倉期の様子を示しており、昔は遠く肥田瀬村からも参る人が多かったようです。毎年、春には古くから伝わる祭礼が古式ゆかしく執り行われます。藤平神社に祀られる御神体は、須佐之男(すさのおの)命(みこと)で牛頭(ごず)天皇と呼ばれています。春の祭礼には「字島之(あざしまの)前(まえ)」にある御旅所(おたびしょ)に迎えて神事が行われます。昔は七日の間、火を焚き、花火を上げて、祭礼が0進みました。
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齢峰寺
齢峰寺は、中世南北朝時代の開創で、当初は臨済宗東福寺派に属していたと推定されています。寛文5年(1665)龍福寺の7世(ななせい)である豊(ほう)谷(こく)祖元(そげん)によって中興(ちゅうこう)されて以後は妙心寺派に属しています。裏墓地内にある無縫(むほう)搭(とう)は南北朝期から室町初期の様式で右は開山(かいざん)竹(ちく)翁(おう)禅師(ぜんし)、左は竜泉冷淬(りゅうせんりょうずい)の墓搭と伝わり、岐阜県重要文化財に指定されています。また、この無縫(むほう)搭(とう)は戦国武将の池田(いけだ)恒(つね)興(おき)と息子元(もと)助(すけ)の墓とも伝わります。天正12年(1584)長久手の合戦で戦死した池田恒興と元助の遺骸を親交のあった龍福寺の天猷和尚が引取り葬儀の後、齢峰寺の裏山に埋葬してこの無縫(むほう)搭(とう)を墓としたと伝えられています。
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東香寺
東香寺は大平賀老梅にある臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派(みょうしんじは)のお寺です。正和4年(1315)夢(む)窓(そう)国師(こくし)が老梅山(ろうばいさん)の環境を愛して草庵(そうあん)を創り、美濃国守護、土岐頼(ときより)遠(とお)が夢窓国師の教えを深く信じ開基したのが始まりと言われています。老梅山は東香寺の奥山のことで標高約220m、山上には夢窓国師の座禅石があり、山麓には、心字池と呼称される池があります。心字地は無窓国師が作ったものと伝わっており、町指定文化財となっています。
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佐久太神社
夕田にある佐久太神社は延喜式(えいぎしき)神名帳(しんめいちょう)(927)に賀茂郡佐久太神社、美濃国神名帳に賀茂郡従5位下佐久太明神とあります。そのほか美濃(みの)国(こく)笠松県式内社(かさまつけんしきないしゃ)考証(こうしょう)に佐久太神社は、加茂郡夕田郷夕田村にありと記してあります。このように約千年前に延喜式内社として認められ、極めて古い創建になった神社であります。寛文5年(1665)乙巳年の再建棟(むな)札(ふだ)によれば熊野神社と称したこともあったが、後改めて今日のとおりに佐久太と名付けられました。この神社は大山神社と共に当町に於ける式内社として歴史的に極めて貴重な神社であります。
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大山神社
大山神社は延喜式(えいぎしき)神名帳(しんめいちょう)(927)に記載がある式内社で、千年以上前の古くから、まつられてきた当町最古の歴史ある神社の一つです。御神体の年代は定かではありませんが、甚だ古い木像の男神一柱・女神二柱があり、高さ30㎝程の立像であります。棟(むな)札(ふだ)によれば天保の頃に、加茂明神と称したとあります。明治の初め頃、社が朽ちて大変に荒れ果てていたのを明治5年5月村人が憂い、私財を投じて工費143円50銭で社を復旧し、併せて祭り費用にと山林を寄進して神社の復興に尽力したそうです。これにより今日の立派な神社となりました。
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光宗寺
光宗寺は、加治田にある浄土真宗本願寺派のお寺です。願(がん)正房(しょうぼう)願(がん)慧(え)という人が、親鸞(しんらん)上人(しょうにん)が関東から上洛のとき羽島郡足(あ)近(じか)村(むら)に長く滞在され、その時、その教えを深く信じて改宗し、仏像を賜り、かつ法名を光宗と授かりました。これが寺の名前の元となりました。戦国の世、厚見郡宇佐村に辻(つじ)利(り)兵衛(へい)義(よし)成(なり)と云う人が、実(じつ)如上人(にょしょうにん)の教えを深く信じ、髪を剃り、法名に法乗という名を授かり、長く荒廃していた願正房を復活させて、名を光宗寺に改めました。光宗寺には、木造(もくぞう)阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)立像(りつぞう)など多くの町指定重要文化財があります。
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半布神社
この場所には、村社神明神社が祀られていましたが、明治42年に羽生地内の各神社が合祀され誕生した神社です。半布(はんぷ)神社(じんじゃ)は、奈良の正倉院に残されていた日本最古の戸籍「大宝(たいほう)二年(にねん)御野(みの)国(こく)加毛群半(かもぐんは)布里(にゅうり)戸籍(こせき)」の古い地名「半布里(はにゅうり)」から、現在の名前が付けられました。
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法源寺
法源寺の参道にある三十三観音は、1つの石に一尊ずつ彫られています。砂岩を使用している所、風化が進み、中には、尊顔(そんがん)も定かでないものがあります。全体的に素朴な掘りで、尊拝する者に好感を与えています。隣に、八十八ヶ所(はちじゅうはっかしょ)尊像(そんぞう)も見ることができます。
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大梅寺
大梅寺は、富加町羽生に所在する黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺です。寺伝によれば、羽生の住人たちが、平安時代に後(ご)一条(いちじょう)天皇(てんのう)から授かった観音像を、簡単なお堂を建てて信仰してきましたが、江戸時代になり、井戸宗(いどそう)太(た)という人物が江戸に行き、領主である旗本(はたもと)前田氏から現在の寺領(じりょう)を貰い受け、観音堂を築いたそうです。元禄8年(1695)に地元古老がここに、黄檗宗の今(いま)渡(わたり)円通寺(えんつうじ)(可児市)から鉄面(てつめん)和尚を招いて、大梅寺を開きました。岐阜県指定重要文化財「木造(もくぞう)聖(しょう)観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)立像(りつぞう)」(非公開)など多くの文化財が残されています。
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白華山清水寺
加治田にある「白(はっ)華山(かさん)清水寺(きよみずでら)」は京都の音羽山(おとわさん)清水寺(きよみずでら)と同じく、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の開基、延鎮(えんちん)大師(たいし)の開山と伝わり、本尊の木造十一面観世音菩薩坐像は、国指定重要文化財となっており、県指定文化財の二天門や地蔵(じぞう)菩薩(ぼさつ)立像(りつぞう)をはじめ多数の文化財を有しています。元来は、真言宗でしたが、江戸中期頃に臨済宗妙心寺派の末寺となりました。山門のすぐ前を流れる硯川の畔は「清水(きよみず)谷(たに)公園(こうえん)」として美しく整備され、春の新緑や秋の紅葉には多くの方々が訪れます。