齢峰寺

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齢峰寺は、中世南北朝時代の開創で、当初は臨済宗東福寺派に属していたと推定されています。寛文5年(1665)龍福寺の7世(ななせい)である豊(ほう)谷(こく)祖元(そげん)によって中興(ちゅうこう)されて以後は妙心寺派に属しています。裏墓地内にある無縫(むほう)搭(とう)は南北朝期から室町初期の様式で右は開山(かいざん)竹(ちく)翁(おう)禅師(ぜんし)、左は竜泉冷淬(りゅうせんりょうずい)の墓搭と伝わり、岐阜県重要文化財に指定されています。また、この無縫(むほう)搭(とう)は戦国武将の池田(いけだ)恒(つね)興(おき)と息子元(もと)助(すけ)の墓とも伝わります。天正12年(1584)長久手の合戦で戦死した池田恒興と元助の遺骸を親交のあった龍福寺の天猷和尚が引取り葬儀の後、齢峰寺の裏山に埋葬してこの無縫(むほう)搭(とう)を墓としたと伝えられています。

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