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夕田茶臼山古墳
夕田茶臼山古墳は、丘陵の尾根の上に築かれた前方後円墳です。全長は39.5mで、出土土器や炭化物のAMS年代測定により築造年代が3世紀中頃と判明しました。埋葬主体部の調査は行われていませんが、木棺直葬(もっかんじきそう)で保存状況は良好と確認されています。築造方法は弥生時代の墳(ふん)丘(きゅう)墓(ぼ)の伝統を引き継いでおり、美濃の前方後円墳の誕生を知る上で、非常に貴重な資料となっています。夕田地区には他に2基の前方後円墳(蓮(はす)野(の)1古墳、杉(すぎ)洞(ぼら)1号墳)があり、町内でも早くから開かれた地域であると考えられます。岐阜県最古の前方後円墳であるといわれ、岐阜県指定史跡となっています。
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井高1号古墳
井高一号古墳は富加町滝田宮前地内に所在する方墳です。古くから「井高の火塚」と呼ばれ、地元では、大昔に火が降って来た時、人々が隠れたものと言い伝えられています。一辺が20mを超える大型の方墳で、墳(ふん)丘(きゅう)や石室の保存状態も良く、県内でも代表的な方墳として知られています。石室は大きな山石と川原石を積み上げて築いた「横穴式石室」で、その入口は南南西に開き、短い羨道部(せんどうぶ)をくぐると、天井が一段高くなった石室につづきます。石室は、前室・後室に分かれた複室構造で非常に珍しいものです。平成14年に崩れかけた墳丘の一部を修復した際に、川原石がその表面を覆っていることが分かりました。古墳が作られた当時は、白い川原石で飾られた荘厳な姿を表していたものと思われます。
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閏田古墳
閏田古墳は形がはっきりと残されている大型の円墳で直径が20mあります。この古墳は土地改良の際も保存され現在も原型が保たれています。5世紀~6世紀初めの頃の年代と推定されます。
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加治田城跡
当町は織田信長の中濃侵攻の舞台となりました。この時に、信長方へついた武将「佐藤紀伊守」の城が加治田城です。加治田城跡には、敵の来襲を防御する空掘(からほり)や兵士を配備するための曲(くる)輪(わ)、主郭部へ容易に進入させないために道をクランクさせた虎口(こぐち)とされる石積みが残されています。清水寺から加治田城趾への登るための見学道が整備されており、途中にも案内表示が有ります。城跡への見学道の途中には、合戦の舞台となった堂洞城跡や名古屋市街地も眺望できます。
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富加町郷土資料館
里遺跡」から出土した墨書土器などが展示されています。他にも、岐阜県最古の前方後円墳「夕田茶臼山古墳」の出土品、江戸時代の水争いの記録や民俗資料、富加町出身で明治から昭和にかけて活躍した児童文学者「木村小舟」の自筆原稿などを展示しています。
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堂洞城跡
織田信長の東美濃(現在の岐阜県中濃地域東部)攻略に関連して「信長(しんちょう)公記(こうき)」にも登場し、合戦の舞台となったのが堂洞城です。堂洞城跡では最近まで合戦の時に焼けた兵糧(ひょうろう)米(まい)と考えられる炭となった米が出土していました。近くには城主岸勘解由や城兵が月見の宴を催したと云わる八畳岩と呼ばれる一枚岩もあります。また、みのかも定住自立圏事業として、美濃加茂市、坂祝町、富加町が共同で発刊した歴史PRマンガ「夕雲の城」の舞台となりました。
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八尾比丘尼伝説の立岩
八百(やお)比丘尼(びくに)は飛騨の馬瀬村から両親の墓石を背負い、空を飛び墓石を建てる場所を探して美濃の国に入り、関市大野では井戸に足をつっこみ、川(かわ)小牧(こまき)へ降りようとして、のぼりで目を突き、大山へ走り込むと、門に蹴つまづき、尻餅を付き、大きな音に村人が集まり、八百比丘尼を立たせようとしたが、大きな一枚岩の墓石がめり込み持ち上がらず、縄を切ったため、この場所に両親の墓石を建てたそうです。「大野では、井戸を掘らない。川小牧では、のぼりを建てない。大山では門を作らない。」と言う言い伝えが、近年まで残っていました。
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松井屋酒造資料館
松井屋酒造は寛政7年(1795)に建てられ、町家の代表的家屋を今に残しています。表側の太い鬼(おに)格子(こうし)に、昔のままの蔀(しとみ)戸(ど)をつけ、帳場(ちょうば)も江戸時代の落ち着いた、たたずまいを見せています。資料館になっている酒蔵の中に入れば、約5,200点もの酒造り用具が展示されており、その内の3,143点と酒造文章459点が酒機2棟と主屋とともに、県の重要文化財に指定されています。大梁は6間半にも及ぶ太い長尺の直材を使用して見る人を驚かせます。また、今では見られなくなった懐かしい生活用具も展示されています。